PAST EXHIBITIONS

Past Exhibition

2018. 8 / 10  fri. ––– 2018. 9 / 9 sun

11:00 – 19:00  Close ( Tue )

田中 秀和 | Hidekazu Tanaka

[ Dimension f = time ]

私は、制作活動の初期より、絵画の抽象表現として、即興的でリズミカルな視覚的動性を特徴とする画面構成を追求してきました。それは、抽象表現の難解さを越えて思考や身体の意識に触れる一つの手段だと考えているからです。

 私は、“時間”を作品が成り立つ重要な一つの要素として考えています。作品では即興的に描いた線や形をサンプリングし、画面上にフィードバック、ループさせる事で、作品個々の独自性に平行してイメージの明確な時間的連続性を作品間に取り込み、作品に時間の要素をもたせます。そして、イメージだけでなく投げつけた絵の具の粒など、絵画における物質的要素も引きはがしてサンプリングし再構成します。このように自身の制作の時間性を見ていくと、現代も含めた、いわゆる美術の伝統の中にあるような類型よりは、音楽の編集手法に自身の絵画の制作の親近性があると考えています。絵具と磁石による再編集可能な作品は、永遠に変わり続ける事ができる作品として、作品が生命を持ったかの様にも見えてきます。そのようにして、空間芸術とされる絵画表現に時間の要素を獲得することは、全体を通して観ていくと繁殖や進化と同じ遺伝現象のようにも見ることが出来ますし、ある美的要素を作品間でループ/シェアするこのような手法は、時間/空間の問題、意識/無意識の問題など、「抽象」という概念に対してさまざまな命題を投げかけるものです。そのように、無意識を意識的にコントロールし、偶然を必然の要素として、繰り返すことによって、作品に独自の時間的パースペクティブが生み出されるのではないでしょうか。

​田中 秀和

展覧会タイトルにもなっている通り、今回展示する田中秀和は、時間をテーマに作品を制作してきた。彼に限らず、時間をテーマにしている作家は多いし、作品と時間の関係は切りようがない。展覧会を企画している当の私自身も油画版画を専攻していた学生時代、版のレイヤーの集積が時間の集積として作品を成り立たせていると考え、作品を作ってきた過去がある。

 

今回彼に展覧会の依頼をし、直球のタイトルを見ながら、「美術館で作品鑑賞をした後、なぜあんなにも疲労するのか」ということについて、2008年に滋賀県立近代美術館で開催された展覧会「ART BRUT -パリ、abcdコレクションより-」の連続講演会で、人間行動学を研究する細馬宏通が明確に答えを語ったことに感動したことを思い出した*。 

 

論旨の一部を要約すると、当時、脳科学では私たちの身体運動とミラーニューロンとの関係が注目されており、例えばある人がアイスクリームを舐めていると、それを見た私たちの脳のなかで「アイスクリーム舐めてるなぁ」という感覚が立ち上がるわけだが、このとき興奮している神経の一部は、実際に自分自身がアイスクリームを舐めるときにも立ち上がる。これがミラーニューロンで、感覚と運動の対応に関係しているといわれている。ここからは彼の想像だが、恐らくこのミラーニューロンみたいなものは、身体動作ではなくて、身体動作の痕跡にも反応しているのではないか、例えば人が引っ掻いた痕を見たときに、「あ、あの爪で引っ掻いた感じ」とか、「私もああいうふうに力入れて引っ掻くわ」というように、理屈ではなくパッとすぐに反応できる脳の部位があるのではないか。極端に言えばアートというものは人の身体動作の痕跡だと思う、と。

 

つまり、美術館に行って展覧会をひと通り観た後というのは、一つの作品の中で、一人のアーティストが費やした時間と行為の追体験の連続を短時間で一気に行うことになるため、疲労困憊するのであろうと。

 

 

田中秀和の作品について話を戻そう。彼の展覧会タイトル「Dimension F=time」が指し示す通り、次元枠(Dimension Frame)は時間である、という。この「時間」は作家が費やした行為と時間を観る者が追体験するものではなく、もっと愚直に、彼は作品が掛けられる壁と支持体と絵の具にそれぞれ引き剥がし「次元枠」としてバラバラに空中に浮遊させてしまい、そこに漂う時間のことを指しているのである。おそらく、多くの人は彼の作品を目の前に、作品の絵具の粒の様に空間に宙づりにされるであろう。なぜなら、その絵の具の粒ひとつひとつに意味なんて無いのだから。楽譜の中の音符のひとつひとつが意味を持たないのと同様に、他の要素と繋がる事で初めて成り立つものなのだから。音楽が連続性のある空間の中で、あえて始まりと終わりを区切るものであるならば、田中の作品も同様の捉え方ができるであろう。ついでに、音楽と違うのは彼の作品は観る者も参加して編集できる点であろうか。

 

 

最後に、とはいえ今回の展示でも発表している壁面の、このドローイングめいたものは一体何なのか。これについて実は答えがある。それは、パブロ・ピカソの銅版画347シリーズ(エロチカ)から田中が気になったドローイングのラインを抽出したものである。ではなぜこのラインを引用するに至ったのか。これにも答えがあった。2013年に杉本博司が白金コンプレックスでキュレーションした展覧会「メメント・モリー愛と死を見つめてー」で田中秀和は作品を発表しているのだが、彼は「エロスとタナトス」をテーマとした展覧会に選ばれたにもかかわらず、「はて、自分の作品にはエロスの要素が無い」と考え、ちょうど取材する機会のあったピカソのこの作品から想を得て作品のドライブとした。ただ、長くなるがこれには後日談があり、発表したこのピカソのエロスのかけらが展示中にポロポロと剥がれ落ちてきてしまったのを見た彼は、音をひとつひとつ拾うかのように、それらをひとつひとつ拾って壁に再構成して再起させている。この、ラインひとつひとつにエロスは無いのである。だが、本人が自覚していないだけであるが、田中が物質そのものへ自らの思考を純化している傍らで、我々は彼の作品にエロスを感じているのである(作家本人にもかもしれないが)。

*出典:「身体は繰り返す 美の術と身体の術」細馬宏通 『アール・ブリュット-パリ、abcdコレクションより- 連続講演会「生命(いのち)のアートだ」』記録集 発行:滋賀県立近代美術館 2008年

 

                                        text: yuki asai

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